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Tojisha to tasha o tsunagu geijutsu

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Academic year: 2021

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(1)Title Sub Title Author Publisher Publication year Jtitle Abstract Notes Genre URL. Powered by TCPDF (www.tcpdf.org). 当事者と他者をつなぐ芸術 高本, 友子(Kunieda, Takahiro) 國枝, 孝弘 慶應義塾大学湘南藤沢学会 2015-04 研究会優秀論文 國枝孝弘研究会2014年度秋学期 Technical Report http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/detail.php?koara_id=KO90003002-2014-0070001.

(2) SFC-SW P 2 0 1 4 -. 007. 事 当 者と他者をつなぐ芸術 2 0 1 4 年 度 秋学期. 高本友子総合政策学部4 年. 國枝孝弘研究会 慶應義塾大学湘南藤沢学会.

(3) 高本友子君の卒業論文によせて 社会問題は、テレビ、新聞、そしてインターネットを通して、 日々私たちに 届けられる。その問題は、共時的なものもあれば、通時的なものもある。共時 的とは、今起きていることであるが、現代 社 会 で は 「ここ」ではないことも、 瞬時にして伝えられる。私たちは自分の生活圏だけではなく、 日本の別の場所 で起きていること、そして世界の隅々で起きていることについても「 知る」こ とができる。通事的なものは、過去に起きたことであるが、歴史として私たち の 「 知る」対象となる。 空間的にも時間的にも伝えられる出来事は広大だが、私たちはそれをすべて 一様に受け取るわけではない。それどころか、大きな社会問題、今だ解決され ていない社会問題があったとしても、それがみなによって共有化= 問題意識化 されるとは限らない。 本論文の主旨は、非体験者が他者の問題を 分のものとして意識化するため に、ジャーナリズムとは異なる手法として、芸術の機能に着目し、芸術による 社会問題の共有化の可能性を探ったところに求められる。 この問題を探究する上で、高本君が方法論として採用したのが社会学で言 われる当事者研究、そしてトラウマの当事者研究である。そしてある社会問題 の当事者との関係から、その当事者に寄り添う共在者、そして当事者の体験を 社会化する介在者を措定し、こ の 3 者の関係を芸術の生産の場に当てはめるこ. g. とで、芸術作品と芸術家の役割を分析した。 その分析の対象には、東日本大震災後の映像作品、死刑囚の作品展、そして 高本君の出身地である広島、そして長崎の原爆表象が選ばれた。 芸術が社会問題にコミットするときにつきまとうこと、そして当事者に近づ けば近づくほど生まれてくる問題は、本来ならば、意味の強制から自由である ところに芸術の存在根拠があるにもかかわらず、メッセージ生が強く出てしま う点である。高本君はこの芸術のもつ危うさに注意深く目を配りながら、最終 的には、記憶の分有としての芸術の意義を結論づけた。 研究方法、研究対象、そして考察も、いずれも学部の水準を越えた質の高い 論文であり、高く評価する次第である。本人は地元広島に戻り、報道の仕事に 携わる予定である。 この論文での考察が、社会に出ても、 自分の考えの礎とな ることを析っている。 2015年3月25日 総合政策学部 國枝孝弘.

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(5) 当事者と他者をつなぐ芸術 國枝孝弘研究会 総合政策学部4 年 7 1 1 0 5 1 2 3 高本友子.

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(7) はじめに. 日々テレビで流れてくる殺人事件、教科書で習う戦争、過去から続く差別問題。 その問 題の 一 つ 一 つ に < 当事者〉と呼ばれる問題の体験者が存在していることは言うまでもない。 自分自身がそれらの問題に直接関わっている、または家族や友人が閨わっているという場 合を除けば、その問題を伝えるのはメディアという第三者の存在である。そのメディアが、 テレビであるか、新聞であるか、教科書であるのかという違いはあるが、いつもその問題 の< 当事者> と情報を受け取る< 他 者 > である私たちの間にはメディアと呼ばれる存在が ある。 本研究をおこなう理由は、そのメディア表現への違和感からである。マスメディア等が < 他 者 > に対して共感を呼ぼうとしても、切り取られた情報を見る< 他者>で あ る 私 た ち はただの情報として消費していくだけで、その悲惨な出来事と< 当事者> を切り離して考 えていることが多い。そういった違和感が私の中にあった。私たちは、 テ レ ビ の ニュース で流れてくる殺人事件を自分の日常と切り離して考え、教科書に書かれる戦争をある種の 物語のように聞き流してしまいがちだ。安全な立場に存在する他者が求めているのは娯楽 的な物語であり、刺激的な描写ではないか、 こういった問題意識が本研究の根底にある。 当事者の存在や当事者のもつ体験、 トラウマを認知することができれば、他者がその問 題を自身と連関する現実として捉えなおすことができるようになるのでは、 当事者と他者 の距離が縮まるのでは、 という思いから本研究はスタートした。 当事者の体験を非体験者 である他者がどう自身と連関のある社会問題として可視化し、認知し、容認し、理解する ことができるかということを主眼とする論文である。本論文では、その安全な日常を生き る< 他者>を無関心から変えるための手法として、芸術という可能性を論じていきたい。. 「当事者」 について問題意識があるのは、広島で生まれ育った私の原体験に由来する。 被爆者である私の祖母は原爆というトラウマについて語ることのできない当事者であった。 祖母が原爆という体験について口にすることは滅多にない。語 っ た と し て も 「 地獄」 とい う一言だけであり、原爆によって失った家族や友人のこと、当時の詳細を祖母が自発的に 口にすることはほとんどなかった。一番身近な被爆者である祖母から原爆について語られ ることがめったになかった一方、八 月 六 日 の 「ヒロシマ 」 平和記念式典の盛り上がりに違 和感を感じていた。祖母は式典には決して参加せず、 自身の父の命日に必ず平和公園を訪 れる。 亡くなった友人の眠る慰霊碑を訪れる。祖母にとっての原爆は八月六日だけではな かったのだ。声高に核兵器反対を叫ぶデモを嫌い、原爆ドームに決して足を運ばない祖母 のトラウマの深さに痛みを感じたことが本研究の原点である。. 1.

(8) 大学入学一ヶ月前に、東日本大震災が起きた。大学生活において、特 に 大 学 1 年の頃は、 どの授業においても震災との関わり合いを意識させられた。政治学の立場から、心理学の 立場から、社会学の立場から、哲学の立場から、東日本大震災という出来事は語られてい く。学問だけではない。学生同士でも東日本大震災という出来事を中心点に立場が分けら れていく。 2 0 1 1 年 3 月 1 1 日当時、 自分は何をしていたか多くの人と語り合う機会が あった。実際に被災し、東北地方から上京してきた人、閨東で被災した人、ボランティア に参加した人、 テ レ ビ で みるだけだった人。私は テ レ ビ で みるだけだった人間だった。 私は東日本大震災を直接経験してもいなければ、東北を訪れたこともない。 しかし震災 数ケ月後、 「ヒ ロ シ マ 」 「ナ ガ サキ」 に 並 ん で 「フ ク シ マ 」 が語られるようになる。 2 0 1 1 年からは平和式典における平和宣言にも 「フ ク シ マ 」 という単語が登場した。 この時東 日本大震災においても、「 核反対」という主張の裏で、祖母のような語ることのできない「当 事者」が存在するのではないかということを強く意識した。. 当事者のトラウマを知ることは当事者と同化することではない。 たとえ東日本大震災の 非体験者であっても大学生活において私たちは、立場を自覚することが出来事を理解する ことの出発点であるように、 自 ら の 立 場 か ら 2 0 1 1 年 3 月 1 1 日 と そ の 後 を 語 り 、思考 してきた。 東日本大震災や原爆という出来事の下に当事者という存在がいることに気づいたことは、 私にあらゆる社会的災厄においても当事者がいるということを気づかせた。 当事者のトラ ウマを分かることが不可能であっても、その存在を無視したまま出来事を記憶していかな いように、 自らへの戒めとして本論文を執筆していきたい。. 2.

(9) 5. 序章. 第一 章 当 事 者 -共 在 者 -介 在 者 -他 者 の 定 義 と そ の 関 係 ...............................7 第 一 節 当 事 者 -共 在 者 -介 在 者 -他 者 の 定 義 .............................. 7 (1). 当事者とはどういった存在か.......................... 7. (2). 共在者、介在者とはどういった存在か• • •. (3). 他 者 と は ど う い っ た 存 在 か . .................... 1 1. • ........ 9. 第二節当事者-共在者-介在者-他者の関係 - 宮地尚子による環状島を参考に. 第 二 章 可 視 化 の た め の 芸 術 ........ ......................................... 1 5 第一節当事者の芸術における価値とは• • • 第二節. 「 普通の人間」の 芸 術 •. ..................... 1 5. ................................. 1 7. 第 三 節 閨 係 性 の 芸 術 -社 会 性 の あ る 芸 術 の た め に .................... 1 9 第四節. 「 語る」作 者 と 「 示す」作 者 .............................2 1. 第三章当事者による芸術............. .......................................... 2 4 第 一 節 当 事 者 の 語 り の 困 難 さ 一 行 動 化 と 徹 底 操 作 の 反 復 ............ 2 4 第二節当事者による芸術• _ • • • • •. ........................... 2 8. ( 1 ). 丸木スマ、大 道 あ や か ら み る 「 沈黙」の 芸 術 .........2 8. (2). 「 極限芸術-死刑囚の表現」からみる加害者としての当事者の 芸 術 .......................... . ................... 3 2. ( 3 ). リ テ ィ •パ ニ ュ に よ る 記 憶 の 「 消去」へ の 抵 抗 ....... 3 6. 第 四 章 第 三 者 に よ る 芸 術 ..................................................... 4 0 第 一 節 共 在 者 に よ る 芸 術 .......................................... 4 0 ( 1 ) 丸 木 夫 妻 『原爆の図』...............................4 0 ( 2 ) 石 牟 礼 道 子 『苦海浄土』............. ............... 4 3 ( 3 ) 酒 井 耕 •濱 ロ 竜 介 『な み の お と 気 仙 沼 』............ 4 5 第 二 節 介 在 者 に よ る 芸 術 • • • ....................... ... 4 7. ( 1 ) 『透明な隣人-8 によせて』........................... 4 7.

(10) (2 ) 『someday, for somebody いつかの、だれかに』展 • • • 4 9 第五 章. 継 承 の た め の 芸 術 -「ヒロシマ 」 「 ナガサキ」からみる記憶の継承......... 5 3 第 一 節 「ヒロシマ 」 「 ナガサキ」 とその記憶............................5 4 ( 1 ) 記憶の3 つ の レ ベ ル 「 共有」 「 分有 」 「 継 承 」 ............ 5 4 ( 2 ) カタカナ表記からみる「 記憶の継承」が 抱 え る 矛 盾 .• • • 5 7 ( 3 ) 記憶の継承のための追体験............................. 6 3 第二節当事者による記憶の分有 - 当事者となった「 作家」の記憶の分有のための文学.......... 6 4 ( 1 ). 『屍の街』大 田 洋 子 (1 9 4 8 年) .................... 6 5. ( 2 ). 『祭りの場』林 京 子 (1 9 7 5 年) .................... 6 9. 第 三 節 第 三 者 に よ る 「ヒロシマ 」 「 ナガサキ」 ....................... 7 1 ( 1 ) 共在者による芸術と記憶の分有-大江健三郎を読む....... 7 2 ( 2 ) 介在者による芸術と記憶の継承......................... 7 6 -. 田ロランデイと思考の対象としての「ヒロシマ 」 • • . 7 6. -. chim T P〇m の 「 事件」 .............................. 7 8. 第 六 章 消 費 対 象 と し て の ト ラ ウ マ ............................................. 8 2 第 一 節 苦 し み の 表 象 と 消 費 .......................................... 8 2 第二節. 集団の記憶/公共の記憶となるトラウマ....................... 8 4 ( 1 ) 集 団 の 記 憶 ............................................ 8 6 ( 2 ) 公 共 の 記 憶 ............................................ 8 8. 第 七 章 イ デ オ ロ ギ ー と 芸 術 ................................................... 9 0 第一節 第二節. プロ パ ガ ン ダ ...............................................9 0 市民アクティビズム........................................ 9 2. お わ り に ..................................................................... 9 5. ......................................................................... 9 5. 参考文献、参 考 H P ............................................. .............. 9 7.

(11) なぜ、芸術なのか。芸術は、 日常という大きな物語の中の句読点のような存在であり、 挿絵のような存在である。芸術家という希有の才能の持ち主が、 日常から超越した場所か ら人々に新しい視点を与える。芸術は作者と鑑賞者の間の一種のコミュニケーションであ り、鑑賞者は作者が作り出したイメージに立ち会うことで新たな概念や考えや精神と出会 うことができる。芸術には、美的価値、鑑賞的価値の2 つがある。前者は技巧の優劣とい った作品価値だが、後者には単に技巧によってその価値が決まるわけではない。芸術をつ くる状況や主体、そして芸術による状況の変革など作品をとりまく環境による作品価値の ことを指す。筆者が本研究で特に考察していきたいのは後者の価値である。 そして「 社会問題を伝える」 という命題のもとでの、芸術と報道の違いは、芸術は必ず しも時代性を必要としないという部分である。報道の場合、重要視されるのは、今日のニ ュースバリューであり、出来事の記録であり、批評である。一方芸術は、芸術を行う主体 の個性によって作品をつくり、時代性を超えたものがある。 ゆえに芸術によって、報道さ れなかった出来事の再認識を行うことが出来る。 本論文において当事者という問題を考察していくにあたって示唆されることのおおい 『< 当事者> を め ぐ る 社 会 学 調 査 で の 出 会 い を 通 し て 』 には、当事者と他者に接点をも たせる表象について述べられている部分を引用する。. 世界への< 再 接 続 >と <当 事 者 性 > へ と 拓 か れ る よ う な 「 新しい」 メディア表現が あるとするなら、そ れ は 「メディアの専門家 V S < 当事者> 」、 「 く安全> な日常 V S く 啓蒙> される非日常」、 といった対立的配置を超えて、いくつもの側面から融合するメ ディアのあり方とその解読を含むようなものになるだろう1。. 本論文においては、 この新しいメディア表現として芸術という手法を探っていきたい。 芸術は、作者と鑑賞者のあいだに対立的配置があるのではない。作者の位置も他者の位置 も常に多様なのが芸術である。本論文では芸術行為における作者の立場がどう作品に影響 し、他者へ影響し、結果的に当事者と他者をつないでいくことができるのかという問いを 主旨とするものである。. 章立てについて簡潔に説明する。 1宮 内 洋 、好 井 裕 明 編 著 (2 〇 1 〇 年) 『< 当事者 > を め ぐ る 社 会 学 調 査 で の 出 会 い を 通 し て 』 路 書 房 P.158.. 北大.

(12) 第一章では芸術の作者の立場について説明する。社会問題及びその当事者について伝え るとき、その主体は当事者あるいは第三者である。 その第三者は当事者との距離の違いで 共在者、介 在 者 の 2 種類に分けられる。作者の立場について社会学領域にある当事者学と、 当事者のトラウマという心理学を組み合わせて定義していく。 第二章では芸術論について考察していく。本論文で考察していく芸術は高度な技術を有 するものではなく、当事者及び当事者をめぐる関係に主眼をおくものであるため、普通の 人間に開かれた芸術論として鶴見俊輔の『限界芸術論』、関係性を重視した芸術論として『閨 係 性 の 美 学 (リレーショナルアート)』 を参考として定義する。 第三章、第四章では当事者/共在者/介在者の芸術作品の分析を行い、その作品の特徴に ついて述べる。 第五章からは記憶と継承をテーマに、歴史となっていく出来事の継承について、広島、 長崎の原爆という厄災を例に、引き続き当事者/共在者/介在者の区別から考察していく。 出来事をなかったことにしないために、異なる立場から異なる主眼の芸術が生まれている ことを述べる。 第六章においては、そもそもの問題意識である、記憶をメディアが集合的記憶化するこ と、 トラウマを記号化してしまうことについて論じる。 また芸術は政治イデオロギーに利 用されやすく諸刃の剣であることを述べる。. 「 社会問題を伝える」 という命題のもと芸術がどう他者に出来事を認識させることがで きるかその問いに対し、 「 芸術の主体である作者の立場」 という主軸から答えていきたい。. 6.

(13) 第一章当事者-共在者-介在者-他者の定義とその関係. 本論文は当事者の体験をどう非体験者である他者がどう社会問題としては可視化され、 認知され、容認され、理解することができるかということを主眼としている。本章では、 宫 内洋、好 井 裕 明 編 著 『< 当事者 > を め ぐ る 社 会 学 調 査 で の 出 会 い を 通 し て 』 における 当事者研究と、宮 地 尚 子 の 「 環状島モデル」 を参考に、当事者と他者とその間に存在する 共在者、介在者の定義とその位置閨係を明確にすることで、問題意識の整理の助けとして いきたい。. 第一節当事者-共在者-介在者-他者の定義. 本節では、当事者とはどういった存在を指すか、その特徴とは何かと、当事者に対して の共在者、介在者、他者はどういった存在かということを『< 当事者> をめぐる社会学 調査での出会いを通して』2という先行研究をもとに述べていく。. ( 1 ) 当事者とはどういった存在か. 『く当事者> をめぐる社会学』第七章、天 田 城 介 に よ る 「 底に触れているものたちは声 を失い一声を与える」3を参考と して 本研究での当事者とは ど う い っ た 存在 か に つ い て 述べ て ゆく。. 天田は本書において当事者とは辞書における意味を借りるならば、「 その事柄に直接閨係 している人、問題を体験している人」などと定義することが出来るが、当事者は誰かと当 事者探しをすることや、当事者の線引きをすることは無意味だと述べている。 その事柄、 出来事と関係する上での地位、立場、制度、利害、力 学 に よ っ て 「当事者は誰か」の答え は全く異なってくるからである。 その上で天田はこう述べている。. (当事者探しをすることよりも)むしろ、そ う し て 「当事者であること」が切実に 問われる場がいかなる社会的仕掛けのもとにあるのかを社会学的に診断する方がよ っぽど大事なことだ。 (…) 「 当事者であること」はそれ以上でも以下でもない。 「 当事^•であること」それ. 22宮 内 洋 好 井 裕 明 編 著 (2 0 1 0 年)『く当事者〉をめぐる社会学調査での出会いを通して』. 路書房 3同上 P .121.. 7. 北大.

(14) 自体が何か特権的な立場を指し示すわけではない。ましてや当事者の主張というだけ で自動的に正しいことが導かれるわけではない。当事者の立ち位置にたっていること はそのまま正しいことの根拠にはならないのだ。繰り返すが、む し ろ 「当事者である こと」が切実に問われる事態を社会学的に解明したほうがよいのだ4。. つまり、当事者が誰かという線引きの議論は不毛であり、 当事者がどういった存在かを 語る時においては、当事者がどのような社会的事柄、問題をもって当事者となったのかと いう部分が当事者を述べる上で重要なのである。そ れ を 本 論 文 で は 「当事者性」 と表現す る。そ の 「当事者性」 とは当事者にとって自らの過去や記憶であり、 トラウマであり、今 現在の苦痛、心情、主張である。 こ の 「当事者性」 とは後に考察する当事者の芸術、及び その行為の土台となるものである。 そして当事者はその社会的背景を抜きにしてしまえば「 普通の人間」なのである。 「 普通 の人間」がある社会的事柄、問題に閨係したという状況下において、 当事者という別名が 与えられるのである。本研究においてもこの点は非常に重要である。 当 事 者 は 「 普通の人 間 J であるからこそ、 自らの感情、考えを語ることに長けてきた存在ではないということ だ。そして普通の人間を当事者たらしめた事柄が過酷であればあるほどに、その現実を語 ることが困難になってしまう。 そしてまた、当事者が自らを語ることが困難であるということは、第三者が当事者を理 解することも困難な作業であるということだ。 しかし、 当事者はこのように自らを語るこ とが困難でありながらも、①自身の中に社会的事柄、問題を語りたい/伝えたいという思い を内在した存在、②または社会的文脈の中で語られるべき/伝えられるべき、 と判断された 存在であるという矛盾を抱えた立場にいる。こ の 「 当事者の語り」の困難さの根源には「ト ラウマ」が存在している。 この当事者の語りの困難さと「トラウマ」については第三章で 詳しく考察する。 また当事者は二重性を抱えている。 同書の第九章、好 井 裕 明 に よ る 「 差別研究による2 つの当事者性」5を参考にすると、例えば差別問題などにおいては、被差別当事者と差別を する当事者の2 つの当事者がいる。差別問題だけではなく、ニュースで流れてくるような、 傷害事件、殺人事件などにおいてもこの二重性は確認できる。つまり、社会的問題をつく つた原因である加害者としての当事者と被害者としての当事者である。本研究ではこの2 つの当事者を区別しながらも、その両方を研究対象として進めていく。. 『< 当事者〉をめぐる社会学』 同 上 P,163.. P.122.. 8.

(15) ( 2 ) 共在者、介在者とはどういった存在か. まず、本研究ではこの< 共 在 者 >と <介 在 者 > を伝達者にしぼって考察してゆく。つま り研究者の立場になって当事者を研究対象としてみなすのでもなく、心理土となって当事 者を患者とみなすわけでもない。 な ぜ な ら 本 研 究 は 「どうしたら情報の< 当事者> と受け 手の < 他者 > の溝が埋まるか」 という問題意識が底にあるからである。. ここでは、『< 当事者 > をめぐる社会学』、「 第一章共在者は当事者になりえるか-性風 俗店の参与観察調査から( 熊田陽子)」6を参考にしつつ、共在者とは何か、< 介在者> であ ることと < 共在者> であることの違いとはどういったものかを述べてゆく。 まず参考にす る熊田の引用するシュッツの論を引用する。. シュッツ78に よ れ ば ( •••)「 対面」関係にある共在者たちは、空間と時間の双方を共有 する。 ここでいう空間の共有には、主 に 3 つの意味が含まれる。第一は、互いが、他 者が身体的に現前していることに気づいているということ。第二は、相手が類型の一 例ではなく、特定の個人として認識されるということ。第三は互いの身体について、 彼/女の内在意識が表される場とみなしていることである。 ( …)第三の点について、 もう少し検討を加えよう。 ( …)それは、会話の中で、互いが相手の言葉について、客 観的な意味の把握だけではなく、その言葉の裏を読んだり、それを発した理由等を考 えたりすることである。 また、例え、具体的な会話がなくても、他者に意識を向ける 時、人は、相手の思考をその表情や仕草から読み取っているということでもある. (Schuts 1970=1980: 175-176) »〇. ここで対面しているのは< 当事者> と< 共在者> である。共在者は当事者にとっての家 族、友人など特別な存在だけのことを指すのではない。 シュッツの論をふまえると、空間 時間の両方を共有し、以 上 の 3 つの点をふまえられるならばたとえ「 普通の人間」が当事 者になる前は他人だった者同士でも、共在者として当事者との関係性を築くことができる といえる。 ここで第一の点である空間と時間の共有についてもう少し詳しく見ていく。. 6 『く当事者> をめぐる社会学』卜1. 7 Schuts, A 1970 Oh Phenomenology and Social Relations. H.R. Wagner ■森川眞規雄.浜日出夫( 訳) 1980. 現象的社会学紀伊國屋書店 8 『く当事者> をめぐる社会学』P.10,. 9.

(16) 共在者が共有する時間には、同時代者が共有するそれと異なる質のものが含まれて いるという解釈が可能になる。 なぜなら、相手の身体に意識を向けることは、 「 私」 が彼/女の主観的意味連関を今現在の形で把握していることに他ならず、その意味に おいて、共在者は、互いの生に関与しあっているからである9*。 •••主 観 的 意 味 関 連 と は 、人間が自己の経験や行為に付与する意味のまとまり を指す( Shurts 1970=1980 3 6 0 ) 1〇. つまり単に同時代に生きているというだけでは、共在者とはなりえない。東日本大震災 の例をみる。テレビやラジオ、ネットなどといった媒体で被害情報を受け取り、その悲惨 さを目の当たりにした、東北及び被災した地域以外に住む、直接に被災していない人間は 同時代者ではあるが、共在者ではない。 ここで共在者となりえるのは、実際に被災;feffiで、 当時者と対面し、対面した当事者を取り替えることの出来ない、固有名を持った一個人と して認識とした人のみが、共在者と考えることができる。 ( 1 ) で述べたように当事者とは語りたい/ 語るべきことを自身に内在させているよう な存在のことであり、共在者はそれを含めた内在意識を当事者に表現してもらうまたは、 表現し合う存在のことである。 また、 当 事 者 が 「 普通の人間」であるからこそ共在者は当 事者の表現を支えるような存在でなければならないことも定義しておく。表現を支えると は当事者の内在意識の「 代弁」であり、語 り の 「 機会の提供」のことである。. 次に介在者について考察する。介在者と共在者の違いは、先に引用したシュッツの論の 特に第三の点である。介在者は< 当事者> と情報を受け取る< 他者>の間にあるだけの存 在である。共在者のような内在意識を表現し合う關係ではない。先 の (1 ) 当事者とはど ういった存在かという文のなかで、当事者がどのような社会的事柄、問題をもって当事者 となったのかという部分が当事者を述べる上で重要と述べた。介在者がより意識を持つの はこの「 社会的事柄」 という部分である。共在者が当事者の個人個人の内在意識に寄り添 うなら、介在者はその出来事自体を相対化して表象しようとする存在といえる。 しかし共在者として当事者と時間、空間の双方を共有していても、意図的に出来事を相対 化しようとする共在者も存在することは述べておく。. ( 3 ) 他者はどういった存在か. 9 『く当事者〉をめぐる社会学』P.11. ie同上 P.17.. 10.

(17) この研究においての< 他 者 > は 、 く当事者> 、 < 共在者> またはその両方から発せられ た情報を受け取る存在として定義する。共在者とは違い、 く当事者> を一個人として認識 している存在ではない。 また当事者を当事者たらしめた社会的事柄、認識への興味関心の 強い介在者とも立場が区別される。 当事者および、社会的事柄と閨心を持たない、ただ情 報を受け取る存在、 < 受け手> としての定義に留める。. 他者は、なぜ当事者とその当事者にまつわる出来事に目をむける必要があるのか。 それ は本論文におけ る 当 事 者 が 「 社会的な出来事」の下にいるからである。 当事者と他者は根 本的に無閨係な存在同士ではない。. 社会的な苦しみは、政治的•経済的•制度的な力が人々に加えられることによって、 また、それらの力が人々の社会的問題の取り組み方に影響を及ぼすことによって、生 み出される。社会的な苦しみをもたらす問題は、健康、福祉、法律、道徳、宗教など さまざまな分野にわたっている。 (… ). たとえば、残虐行為によってもたらされるトラウマ、苦痛、機能障害は健康上の問題 であるが、それと同時に政治的、文化的な事象でもある。 同様に、病気と死の主要な リスク要因は貧困であるが、それは、健康が社会的指標であり社会的プロセスである ことを別の言い方で表したにすぎない11。. 社会的出来事は、他者も共にしている構造の歪みのなかで発生するものである。 ゆえに当 事者の経験は単に、「 個人的な」問題といったカテゴリーの枠におさめるのでなく、「 社会」 との連閨の中で必要とされる。 ゆえに他者は、 当事者の体験に対して無閨心ではあっても 無関係ではない存在なのである。. 第二節当事者-共在者-介在者-他者の関係-官地尚子による瓛状島を参考に. 例えば、後に考察のテーマにしている原爆というトラウマを語るとき、そこには語る人 と、それを聞く人がいる。原爆という、歴史的事柄でなくても、 自然災害、犯罪、 ドメス ティックバイオレンス、いじめ、児童虐待、それぞれ一つ一つのケースには必ず当事者が 存在する。 またケースによっては加害者が存在し、 当事者を支えるような支援者が存在す 11アーサー.クライマン他著(2 0 1 1 年) 『他者の苦しみへの責任ソーシャルサフアリングを知る』 みすず書房P.I.. 11.

(18) るだろう。 そして必ず、そのケースに全く無閨係な傍観者が存在する。 この節では、宮地 尚 子 著 (2 0 0 7 年)『環状島= トラウマの地政学』 ( みすず書房)、同 著 (2 0 1 1 年)『震 災トラウマと復興ストレス』( 岩波ブックレット)を参考に、社会問題とそれにまつわる人々 のポジションの整理を行う。 心理学者である宮地尚子は、 トラウマを臨床する中で、環状島というモデルを定義して いる。環状島を描いてみることで、犠牲者、被害当事者、支援者、傍観者などトラウマを 巡る人々のポジショナリテイや相互の関係性、それが果たしうる役割を整理することは出 来る。環状島とは、発話者のいる島、のことである。環状島は、ある特定のトラウマごと に形成される。 そのトラウマについて語ることが出来る者は、環状島の陸地のどこかに位 置することになる。 図1 ゼ (ト ラ ウ マ の 核 心 ). 図2 ゼロ地点. 図 1 は環状島の見取り図である。 く 内 海 > と < 外 海 〉があり、島にはく尾根〉がありく 内斜面> く 外 斜 面 >が あ る 。環状島の陸地は、平面状ではドーナツ状の地域となり、それ は原爆被害の同心円図において、被害にはあったけれどもなんとか生き延びた人たち、後 に証言が可能になった人たちの所在していた地域と重なる。 図 2 は環状島の側面図を表したものである。 く海抜> にあたる縦軸は発話力を表してい. 12.

(19) る。横軸はく内海> の中心を< ゼロ地点> とし、出来事からの距離を表す。 < ゼロ地点> とは、先ほどの同心円図でいうと爆心地にあたる。 く 内 海 >は 死 者 、犠牲者の沈んだ領域 である。 < ゼロ地点> に近づけば近づくほど、その発話力は小さい。生き延びたとしても トラウマ反応の強さで、声をあげる力が無いかもしれない。 く内海> から< 内斜面> にあ がると、 当事者の中でも声を出せる生還者が立っている。 そして尾根を境に、< 外 斜 面 > には支援者が立っている。支援者は< 外 海 > から< 外斜面>をのぼって内側に近づき、被 害者を引き上げようとするような存在である。 そしてく外海> にはその出来事に関心のな い傍観者が沈んでいる。つまり< 尾 根 > の内側は当事者、外側は非当事者ということにな る。 このそれぞれの立ち位置を理解することは、相手との距離の取り方や閨係性を見直す 上で重要になってくる。 この環状島に影響を与えるものに、 < 重力 > < 風 > < 水 位 > の 3 つがある。 < 重力 > は トラウマの反応や症状、 <風 >は 対 人 関 係 の 混 乱 や 葛 藤 、 く水位>はトラウマに対する社 会の否認や無理解度を表す。 < 重 力 >は <内 斜 面 >や <外 斜 面 >に 立 ち 続 け る こ と を 困 難 にし、 < 内 海 > や < 外 海 〉に引き落としていくような力であり、< 風 > とは、人々の間に 感情のもつれをもたらし、ストレスやトラブルを引き起こし、回復や支援を困難にするも のであり、< 水 位 > は、時間の流れや、社会の状況、文化的価値観によって変わる。 < 水 位 > が下がれば、 トラウマを語る声が聞き届けられやすくなり、支援者も増える。 < 水位 > が上がれば、今まで被害者と認められていた人も不可視の存在となり、必死で声をあげ なければ支援を得られない状況になる。< 水 位 > については、文化の豊かさや、専門領域、 テ ク ノ ロ ジ ー やメディアも影響を与える。文化の豊かさとは「 論理的な言語だけではなく、. 断片的な叫びや詩的な表現を受け止める能力。言語だけでなく、踊りや歌や絵画など芸術 による表現の伝統。表現されたものだけでなく、沈黙や不在からも意味を見出す感受性の 尊重や儀式の存在、見えているものが全てではないという世界観」 のことを指す。以上が 環状島の概略である。 本レポートは< 外 斜 面 >に 立 つ 人 間 が < 水 位 > をいかに下げることができるか、出来事 及びその当事者がどうすれは、社会問題、それの当事者として可視化され、認知され、理 解されていくかという テ ー マ で 進めていく。前節でそれぞれ定義づけた< 当事者> < 共在 者 > < 他 者 > は環状島の論理に以下のように当てはめることが出来る。環状島の内斜面に 立つ、生還者、当事者-く当事者〉といい、外斜面に立つ支援者-く共在者〉といい、外海 に沈む傍観者-< 他 者 > である。また外斜面にたつものを< 共在者> < 介在者> という言葉 で 2 分類する。 < 共 在 者 > とは当事者と空間と時間の双方を共有し、 当事者の内在意識を 表現することのできる存在である。他方、< 介在者 > とは当事者、 もしくは問題を伝える 対象の他者との間に存在するものである。彼らは必ずしも当事者との関わりを持っていな. 13.

(20) い場合もあるが、その問題に興味、閨心を持っているという点で外斜面に立つことができ、 他者とはポジシヨナリテイを異にする。 ここまで考察してきた当事者/共在者/介在者の区別はあくまで立場である。特に共在者、 介在者はその立場を互いに行き来しあっている。共在者/介在者は出来事を経験していない からといってトラウマと無関係なわけではない。共在者の立場にいる者が当事者と深くか かわっていくなかで、共在者が< 代 理 外 傷 >12を受ける場合がある。代理外傷とは当時者か ら繰り返し話しを聞き、またトラウマについて深く考える中で非当事者に当事者の PTSD に 似た症状をもたらしてしまうことである。 その場合共在者は内海に沈み声を発することが できなくなってしまうだろう。 また、 当事者と接していく中で、共感する力が消耗し、疲 れ果て、環状が麻痺し、当事者やその周囲の人にさめた態度をとってしまう場合がある。 これを < 共感疲労 > や < 燃え尽き > という13。 この場合、外斜面に立つことのできていた共 在者、介在者は外海に沈んでしまう。 本論文では、水位を下げるため、文化の豊かさを醸成するための< 芸 術 > という手法に つ い て 考察していく。 その主体となる の は 当事者であり、共在者であり、介在者である。. 共在者や介在者は、外斜面に立ち続けるために、時にその自らの立場を変えながら、芸術 行為に向き合っていく場合もあるだろう。芸術の定義については次章で詳しく考察する。. 12『 震災 トラウマと復興ストレス』P . 27. 13 同上 P. 27.. 14.

(21) 第二章可視化のための芸術. 本章では本研究で扱う芸術について定義する。 出来事及びその当事者がどうすれば、社 会問題、それの当事者として可視化され、認知され、理解されていくかということが本論 文の主題である。そのための手法として芸術に注目する。. 第一節当事者の芸術における価値とは. 本節では、芸術論の参考として鶴見俊輔の『限界芸術論』 W を扱う。 これは、本研究が当 事者という「 普通の人間」、「 大衆のなかの一人」の表現に主眼を置くためである。 「 普通の 人間」 とは自己の体験や感情を表象することに対して特別な訓練をうけていない存在のこ とである。 当事者の表現にも芸術という言葉を与えることで、その表現に固有の価値を付 与できると考える。 そもそも芸術とは第三者に向けて表された表現の一種である。そしてある一定の制約の もと表現は芸術となる。 その制約について述べていく。. まず芸術は①美的経験をつくりだす< 記 号 > だといえる。美的経験については、後に詳 述する。次に芸術は、②向けられる対象にくオーディエンス( = 鑑賞者、視聴者) > とい う別名が与えられるという特徴がある。そして、オーディエンスは眼前の芸術とのコミュ ニケーションを求められる存在である。 また、鑑 賞 と は 「 新しいイメージが生まれる瞬間 に立ち会うこと」15つまり、< オーディエンス> であるく他者>は芸術という記号とのコミ ュニケーションの中で新しい概念、考え、精神と出会うのである。 これらをふまえると、 芸術は、精神のあり方が、美的価値、鑑賞的価値を持った別の物質のかたちで表現される、 という特殊なコミュニケーションのかたち、記号のことであると本論文においては定義づ けることができる。 まず①の芸術の特徴における美的経験について説明する。鶴 見 は 『限界芸術論』 におい て 「 美的経験 J をこのように述べている。. 一本の ベ ル ト の ように連続しているように見える毎日の経験の流れにたいして、句 読点をうつようなしかたで働きかけ、単語の流れの中に独立した一個の文章を構成さ 145. 14鶴 見 俊 輔 (1 9 6 7 年)『限界芸術論』 ( 勁草書房)p .l. 15フィルムアート社+ ブラティカ•ネットワーク編集(2 0 0 4 年)『自分の言葉でアートを語るアート. リテラシー入門』p.29.. 15.

(22) せるものが美的経験である1617。. 美的経験として高まってゆき、まとまりをもつということは、その過程において、 その経験をもつ個人の日常的な利害を忘れさせ、 日常的な世界の外につれてゆき、休 息をあたえる。 また、経験の持ち主の感情がその鑑賞しつつある対象に移されて、対 象の中にあるかのように感じさせられる n 。. 経験全体にとけこむような仕方で美的経験があり、また美的経験の広大な領域のな かのほんのわずかな部分として芸術がある。 さらにその芸術という領域の中のほんの 一部分としていわゆる「 芸術」作品がある。 いいかえれば、美が経験一般の中に深く 根こもっていることに対応して芸術もまた、生活そのもののなかに深く根をもってい る18〇. 鶴見は美的経験を非常に広い意味で捉えている。美的経験は日常生活の中に潜んでいる ものとし( 例えば町並みを見る、空を見るなど)、芸術は美的経験という広大な領域の一部 であると述べた。引用によると、経験が美的経験となるのは、鑑賞者の内的変化が重要視 されるととれる。鶴見の論で重要な部分は、引 用 の 「 美が経験一般の中に深く根をもって いることに対応して芸術もまた、生活そのものの中に深く根をもっている」 という部分で ある。美的経験は日常生活においても確認されうる経験であるとし、その中での尺度は計 り得ないものとして、 「 美」 を極めて広く意味付けたのである。 しかし、芸術は表現の一種で人為的なものであり、芸術における美的経験と自然との接 点における美的経験は区別すべきである。 ゆえに、芸術作品による美的経験を高めるには 技術的要素が必要となってくる。 この美的経験をオーディエンスである他者に促す要素を 美的価値であると定義する。 この美的価値においては、当事者よりも第三者である共在者 や介在者に求められることが多い。 次に②の定義のなかのコミュニケーションについてさらに考察を行う。三浦つとむは著 書 『芸術とはどういうものか』 において、 「 表現された人間が感情を持つものとして観念的 に追体験することを、感情移入、感情同化と名付けて19」いる。 この感情移入、感情同化と いう体験は、芸術の客体である他者に、芸術の主体と客体の距離を測らせるものである。. 1 6 『限界芸術論』P.6. 17同上P.4. 18同上P.7. 19三 浦 つ と む (1 9 6 5 年)『芸術とはどういうものか』 ( 至誠堂)p.121.. 16.

(23) この「 距離を測る」行動が芸術とコミュニケーションをとるということである。 しかし、 特に当事者が芸術の主体となる場合においては、感情移入、感情同化というコミュニケ一 ションが困難な場合も多い。ただ、表現-理解の間にあるのは感情移入、感情同化のコミュ ニケーションだけではない。特に芸術においては、 「 わからないこと」が芸術の鑑賞的価値 の深さにつながることもある。. 言葉で通じないから私たちは詩を書き、絵を描くのではないでしょうか。アートで は、確 立 し て い る と 「 思い込んでいる」ア イ デ ン テ ィ テ ィ ( 作家/^観客)同士の対面 ではありません。非常に繊細で、多様で、揺らぎを見せるがゆえに相互に浸透し共振 し て ゆくプロセスです。無意識的なコミュニケーションが行われ、伝達不可能なこと. が伝達不可能なまま送信されることもあります。それが< 強 度 > と呼ばれるもので、 強度の強さは、アートの深さでもあります。精神障害者のアウトサイダーアートなど もわかりあうことの出来ない強度によって感動するのであって、わかりのよい良心の 物語であるとは限らないのではないでしょうか20。. 上記のように、芸 術 は 「 わかりあうことのできない、伝達不可能な」記号であることも 多い。特に本研究で扱うような当事者の芸術においてはこの記号に当てはまる場合も多い だろう。 しかし当事者の創造した芸術記号は、それがオーディエンスである他者にとって 理解に困難なことであっても、オーディエンスに鑑賞的価値を提供する。 そ れ は ( 社会的 事柄/問題と深く閨わる) 当事者の語りが社会的価値を必然的に含んでいるからである。 上記の引用で出てくる、伝達不可能なことが伝達不可能のまま送信される< 強度> とは、 当事者の芸術には欠かすことのできない概念だ。 当事者の芸術の特徴はこのように「 わか らなさ」に価値が置かれる場合もある。 当事者の芸術を論じていくにあたっては、創造さ れた「 芸術作品」のその技術の高さや完成度に対してというよりも、創 造 に 至 る ま で の 「 芸 術行為( = 作品の意味)」 に価値が置かれるのである。鑑賞的価値とは他者と作者のコミュ ニ ケ ー シ ョンの 強度のことである。. 第二節. 「 普通の人間 J による芸術. 引き続き、鶴 見 の 『限界芸術論』 を参考に当事者のつくる芸術についてより詳細にまと めていく。鶴見は作家宫 沢賢治を限界芸術の先駆者のうちの一人としてあげている。鶴見* 2〇フイルムアート社+ プラテイ力 .ネ ッ ト ワ ー ク 編 集 ( 2 0 0 5 年)『アートと い う 戦 場 ソ ー シャルアート 入門』フイルムアート社P .18. 17.

(24) は次のように宮沢の芸術観をまとめている。 宮 沢 賢 治 の 芸 術 観 は (1 ) 芸術をっくる状況、 (2 ) 芸 術 を っ く る 主 体 (3 ) 芸術による 状況の変革という三つのモメントについての彼らしい把握によって成りたっている。 (1 ) 芸 術 を つ く る 状 況 _ 分のいる日常的な状況そのものから、芸術の創造がなされなくては ならない21。 (2 ) 芸 術 を 作 る 主 体 宮 沢 賢 治 に と っ て 、芸術をっくる主体は、芸術家では ないひとりひとりの個人、芸術家らしくない何らかの生産的活動にしたがう個人であった22。 ( 3 ) 芸 術 宮 沢 賢 治 に お い て は 、芸術とは、それぞれの個人が自分の本来の要求にそう て、状況を変革してゆく行為としてとらえられている。その変革がそれぞれの個人にとっ てしぜんな要求にそうているという意味で、 この変革の行為は、 よろこびを伴っており、 強制された労働でもなく、自己強制された無理な倫理的行為でもない23。宮沢賢治は限界芸 術をただの芸術の発生点としてみるのではなく、限界芸術自体に価値があるとした。個人 が日常生活の中から芸術を生み出していくことに価値を見出したのである。 それは彼の童 話 『セロ弾きのゴーシュ』 からも見てとれる。町の映画館で楽隊と一緒にセロを弾いてい るゴーシュはひどく下手なので馬鹿にされながらしょげて田舎のあばらやにかえり、そこ にやってきた猫、かっこう鳥、狸の音やリズムにききいることから、音楽への新しいきっ かけをっかみ、名人となる24。 これはつまり、素人が日常生活のなかから限界芸術家となっ ていく様子である。宮沢の芸術観は、個人個人それぞれに芸術をっくる可能性があると述 ベている。. 当事者は芸術において「 非専門家」であるために、芸術として創作したものは美的価値 から語れば、低いレベルに置かれるものかもしれないが、当事者の創作行為は芸術が発生 していく原点といえる。つまり当事者の芸術が、第三者の表現に影響を与えていくことが あるということだ。 当 事 者 は そ の 「当事者性」ゆえに芸術行為自体に鑑賞的価値をもっ存在である。ゆえに、 その作品が技術面で稚拙で美的価値のレベルが低いもの、つまりその作品が限界芸術の段 階にあるものであっても、オーデイエンスである他者にとっては鑑賞的価値のある作品に なのだ。「 普通の人間」であった当事者という主体が、どういった状況におかれて「 当事者」 となり芸術をつくったのか、 という点が鑑賞的価値となっていくのである。. 2 1 『限界芸術論』P .38. 22同上 P .47. 23同上 p .54. お同上p .48.. 18.

(25) 第三節関係性の芸術-社会性のある芸術のために. 第一節、第二節で考察してきた芸術の強度の意味は伝達不可能なものが伝達不可能のま ま送信されるということであった。 それは当事者の芸術、また当事者の内在意識をそのま まに表現しようとした共在者の芸術においてみることができる強度である。 本節では本論文におけるもう一つの芸術の強度について考察する。 それは伝達不可能な ものがそのまま送信されるリアリティのある芸術に対し、アクチュアリテイの芸術といえ るものである。 ではリアリティとアクチュアリテイの差は何であろうか。. 過去の出来事の実体化と特権化によってもたらされ、当事者によって一義的に記憶 を受け取る際に得られるリアリティという現実性と、万人が現在の立場から他者とし て、 しかし主体的に過去の出来事に関わる際にもたらされるアクチュアリティという 現実性25。. 第一節、第二節で考察してきた芸術は、 当事者のリアリティにより忠実にあろうとする ものであるが、そのリアリテ ィ に 対 す る 「 分からなさ」が強度となるがゆえに、他者にと って共感が得ることが難しいという点がある。一方で、本節において述べる芸術の強度と はより他者に開かれているものであり、いかに他者が出来事に主体的に関われるかが芸術 の強度となる。. 本 節 で は 大 森 俊 克 著 (2 0 1 4 年)『コンテンポラリー.ファインアート:同時代として の美術』 ( 美術出版社)内 の 「リ ア ム •ギ リ ッ ク と 『関係性の美学』」 という節を参考にア クチュアリティのある芸術について考察していく。 「 関係性の芸術」 ( = リレーショナル• アート) とは9 0 年代にフランス出身のキュレーターであるニコラ•ブリオ一が開催した 「トラフィック」展、およびその著作の中で用いた概念である。 ブ リ オ ー が 記 し た 『関係 性の美学』26のなかで彼らの作品は以下のように定義されている。. ギリックたちにとって作品= 構造とは、なんらかの事物や状況を、自己存在に対す る認識能力を回復させる過程のうちに創造する、そ う い っ た 「 神経症的」なものでは ない。そうではなく、事象の断片的な反応をきっかけとして、それらが互いに触発す. 25笠 原 一 人•寺 田 匡 宏 編 著(2 0 0 9 年) 『記憶表現論』昭和堂p.22. 26大森俊克著(2 0 1 4 年)『コンテンポラリー•ファインアート: 同時代としての美術』美術出版社(Stewart Martin,n Critique of Relational Aesthetics'* Third Text,21 no.4 (2 0 0 7) p.67.). 19.

(26) る際の時間と空間の輻輳的な「 交点」の連続が、 「 作品」 と考えられている。彼らは それを「 構造」 という27。. 「 互いに触発する際の時間と空間の輻輳的な『交点』 の 連 続 が 『作品』 と考えられた」、 とあるように、閨係性の芸術は作品にどう参与するか、 という点が本質となっている。. この「 構造」的なものはさらに、ブリオーによって「 装置( dispositif)」と呼ばれる。 ブ リ オ ー は 『関係性の美学』 の最終章で、 リレーショナル•アートでは、時間はあた かも素材のような役割を果たし、アーティストは事物や人間同士の連携を生じさせる 「 場」 となったという28。 (-) 人間の活動が追求する目的で唯一容認できるのは、世界と関係しながら常に自己を 豊かにしていくような主体感の生産でしょう。主体感を生産する装置は巨大都市の尺 度にも、一個人が楽しむ言語遊戯の尺度にも、同じように適合したかたちで存在する ことができます29。. 「 装置」とはプリオーの『関係性の美学』の中で多用される言葉である。 「 装置 J 「 構造」 に比重をおくリレーショナル•アートの文脈のなかでは、物 質 的 な 「もの」ではなく、そ の空間に内在する物質的ではない主題を作者は扱っているのである。 「 装置」 とは、権力の いわば水面下において、戦略的な配置の作用をもたらす、言説や建築、法や哲学を基本と する「 実践」のことである3031。 リ レ ー シ ョ ナ ル •ア ー ト は こ の 「 装置」 を前提としている。 ゆ え に リ レ ー シ ョ ナ ル •ア ー ト の 作 者 は 「 個人」や 「自己」 として擁立される自律的主体 ではなく、臨 機 応 変 に 変 じ て い く 「 生」の連関としての主体である。 そしてブリオーはこ の 「 生」の 連 閨 を 「 関係」であると表現している31。 つ ま り リレーショナル. ア ー ト に おいて、芸 術 の 主 体 は 「 関係」 と言い換えることがで. きる。 こ の 「 閨係」 についてであるが、事象の断片的な反応をきっかけとして、それらが 互いに触発する際の時間と空間の輻模的な「 交点」お よ び 「 連関」のことであり、 リレー シヨナル•アートは作品が制作される際の社会的な文脈もその芸術の領域とする。つまり、 作品が制作される際の過程、その< 作品に閨わる人々の参与のあり方> が芸術の本質とな. 27『コンテンポラリー.ファインアート:同時代としての美術』p.47 28同上 P. 47. 29同上P. 47.(フェリックス•ガタリ宮林寛ほか訳(2 0 0 4 年)『カオスモーズ』 河 出 書 房 新 社 p.38.) 3Q同上 P. 50. 31『コンテンポラリー.ファインアート:同時代としての美術』p.50.. 20.

(27) るのである。 この<作品に関わる人々の参与のあり方> は、本論文における、出来事と当 事者/共在者/介在者の参与のあり方である。出来事との距離のとり方、接触のあり方が、 ど う他者の主体感につながっていくか、 という点が本論文で定義される芸術作品の強度であ る。. 本論文で扱っていく芸術とは、つまり他者にとって強度のある芸術である。その強度は 2 つに分けられる。一つは、伝達不可能なものが伝達不可能なまま送信される強度、 もう 一つは他者が出来事に主体的に関わる接点としての強度である。前者はリアリティの芸術、 後者はアクチュアリティの芸術と表現する。 それは出来事との閨係性、作者の出来事に対 するポジショナリティが作用する。前者は当事者、共在者に多くみられ、後者は介在者の 芸術にみられるものである。. 第四節. 「 語る J 作 者 と 「 示す」作者. 本節では、芸術作品をつくるうえで、 「 再構成」 という作業について考察する。作者が作 品を作るにあたって、その源泉は日常のなかの美、もしくはトラウマ、もしくは葛藤、様々 であるが、作者はそれを表現におとし込める時に必ず「 再構成 J という作業を行っている。 この「 再構成」という作業の違いが、作品の違いを生んでいる。フィクション論を参考に、 その再構成と作者性について本節では考えていきたい。本論文で扱うフィクションという 単語は、虚構、嘘といった意味ではなく、創作という意味で用いる。 まず、文芸評論家であるウヱイン. C •ブ ー ス に よ る 『フィクションの修辞学』 よりフィ クションの一般的基準の作者の拠り所を紹介する。. 作者に要求される態度作者は「 客観的で」、 「 超然としており」、 「 アイロニックで」、 「 中立的で」、 「 公平で」、 「 非個人的で」 あるべきだということを_ 明のことと考えて いる者は多い。 ま た 中 に は 作 者 に 「 情熱的で」、 「 深く閨わり合い」、 「 参加する」 こと を求めるものもいる32。. 当事者ではない、共在者、介在者は他者に対して、ある出来事を可視化させるため作品 をつくり、伝えようとする。 その作品には、事実をそのまま要約して伝えるものや( ルポ. タージ ュ など)、 テ ク ノ ロ ジ ー を 使 っ て 伝 え る も の ( 映像、音声など)絵画描写にして伝え. 32ウェイン. C • ブ ー ス ( 1991年)『フイクシヨンの修辞学』 白馬書房P.62.. 21.

(28) るものや、文学作品にして伝えるものなど、多数ある。 その作品のフィクション性が高ま れば高まるほど、作者は再構成を繰り返す。フィクション性の低い作品は、み る も の に 「 事 実の 再 生 」 を促している。例えば、ルポルタージュや写真や、 ドキュメンタリーなどは こ れにあたる。事実をどのシーンを切り取るか等で作者の性質が作品に影響を与えるが、作 者の創作、意図は比較的少ない。 他方フィクション性の高い作品は「 連想」 を促す。作者が本質を見出した後に、 自らの 創作によって作品を作っていく。 フィクション性が高まれば高まるほど、その作品の根底 にあるメッセージは洗練を繰り返す。 フィクション作品を作ることはもちろん当事者でも 共在者でも介在者でもできることだ。 その中でもフィクションという表現方法に向いてい るのは、当事者と他者の中立に立つ介在者という立場ではないだろうか。 しかし、事実の 再生、固有名詞を伝達する場合には、その現象や当事者と深く関わりを持つ共在者( もし くは当事者自身) という立場が作品の濃度を増していくだろう。 また作者には「 語る」作 者 と 「 示す」作 者 の 2 パターンがある。小説は写実的であるべ きだという一般原則に対して、本書ではこのように語られる。. 作者の声は決して沈黙させられることはないということである。 実際のところ、作 者の声はわれわれが フ ィ ク シ ョ ン を 読む目的の 一 つ で あ り ( …)33. この上なくまじめな学問的著作や批判書の多くが、実際これと同じような、技巧的 である示すことと、芸術的でなく、単に修辞的な語ることとの間の弁証法的な対立を 用いてきた34。. 「 語る」 という作業は、主として当事者のものである。 当事者の記憶から、実体験をも とに「 語られる」 。 しかし、時間、空間を共有し当事者の内在意識を表現しようと試みる共 在者の中には、当事者の意識を自らのものとし「 語る」 ことのできる作者も存在する。 「 普 通の人間」である当事者の表現を共在者が代弁するのである。 そ れ も 「 語る」 という作業 の一 つ で ある。 一方で「 示す」作業は、主に共在者、介在者のものである。 「 示す」作業は時に、想像を 促すだけでなく、教訓的、イデオロギーのようにもなり得るだろう。 そ し て こ の 「 示す」 作者の声は、フ ィ ク シ ョ ン 作品を価値付けるものである 。 フ ィ ク シ ョ ン の 技 法 と は 、何 を 完 全 に 劇 的 に 表 現 し 、 何 を 省 略 し 、何 を 要 約 し 、何 を 誇 張 す る か を 選 択 す る 33『フィクションの修辞学』P.88. 34同上 P. 50.. 22.

(29) 技 術 で あ り 35、 こ れ は 「示 す 」 作 者 の 尺 度 に よ っ て き ま る 。 では、示す作者は、客 観的であるべきなのであろうか、また、 フィクション作品の価値はどのように決まるのだ ろうか。. ある種の作品を書くのに成功するためには、あらゆる知的、政治的主義主張を否認 することが必要だと思っている小説家もいる。 (…)判断の基準となるのは、芸術家が深く関わり合っているかどうかではなく、彼 の特定の目的がそのように関わりあうことで彼が何かを行うのを可能にしているか どうかということである36。. 作者がいかに自分を出さないように努めようとも、読者は必ず、このようにして插 いている公の筆記者の像を作り上げるだろう37。. 内在する作者の感情や判断こそが、私がこれから明らかにしようと思っているよう に、優れたフィクションを作り上げている要素なのである38。. 以上の引用から、すぐれたフィクション作品に必要なのは、作者の感情や判断であると いうことができる。 そしてその作者の尺度の判断の基準は、作者が伝えようとするテーマ と深く関わり合っているという事実ではなく、そのテーマと関わったことで作者の発信に どんな厚みがでたかという部分である。 これは本論文では特に介在者である作者にあては めることのできる論である。介在者は当事者の内在意識を表現する存在ではない。 当事者 を当事者たらしめた出来事と作者を相対させてその出来事を「 示す」のが介在者である。. 3 5 『フィクションの修辞学』P.94, 36 同上 P. 100. 37 同上 P. 101. 38 同上 P. 120 .. 23.

(30) 第三幸当事者の芸術. 本章では、当事者の芸術について考察する。前 章 の 第 三 節 「 普通の人間」 による芸術に おいて、宮 沢 賢 治 の 芸 術 観 (1 ) 芸術をつくる状況、 (2 ) 芸 術 を つ く る 主 体 (3 ) 芸術に よる状況の変革を引用した。本 論 文 に 置 き 換 え る な ら ば (1 ) は 当 事 者 性 ( 当事者を当事 者たらしめた社会的出来事、それに伴う自らの過去や記憶であり、 トラウマであり、今現 在の苦痛、心情、主張のこと)であり、 (2 ) は当事者である。そ し て (3 ) は当事者が自 らの当事者性と向き合うこと、つ ま り ト ラ ウ マ を 「 語る」 ことである。 その手法としての 「 芸術」があるのだ。 ト ラ ウ マ を 「 語る」 ということは困難が伴う場合が多くある。 しか し 「 語る」 ことは当事者がく内海> から浮かび上がるために、 く水位>を下げるために重 要な行為である。本章では、 当事者が芸術を通して自らのトラウマと向き合うこと、その 困難さ、そしてその困難を伴った芸術に付与される強度について考察していく。. 第一節当事者のトラウマと語りの困難さ. 本節では、第一章で扱った当事者性および当事者が語るということにつ い て よ り 詳細な 考察を加える。宮 地 尚 子 の 『トラウマ』39*41、 ま た 栗 林 彰 •小 森 陽 一 •佐 藤 学 •吉 見 俊 哉 編 集 の 『越 境 す る 知 語 り :つむぎだす』4° 、前 章 で も 扱 っ た 『く当事者 > を め ぐ る 社 会 学 調 査での出会いを通して』 を参 考 に 、 当事者のトラウマを語る プ ロ セ ス 及びその困難 さに つ い て 考察する。. 宮地は、当事者がトラウマと向き合うことを、 ト ラ ウ マ を 「 耕す」 と表現する。前節で 紹介した環状島モデルにこれを当てはめている一文を引用する。. 「 耕す」 とは、く内海〉の揺らめきに目を凝らしたり、波打ち際のざわめきに耳を 澄ますことと重なっているように思います。言葉にならないもの、見えないものがそ こにあると気づくこと、時には水をかき出し < 水位 > を下げ、時には網を投げて沈み かけていたものを引き上げること、時にはそっと足を踏み入れ、貝殼のように何か足 裏に触れたものを引き上げること。 そんなイメージが浮かんできます41。. 39宫 地 尚 子 (2 0 1 3 年)『トラウマ』 ( 岩波新書) 4〇栗林彰•小森陽一•佐藤学•吉見俊哉編(2 0 0 0 年)『越 境 す る 知 語 り :つむぎだす』 ( 東京大学出 版会) 4 1 『トラウマ』P.224.. 24.

(31) 宮 地 が 述 べ る こ の 「トラウマを耕す」 という行為は必ずしも、本研究で扱っている社会 問題の可視化のための芸術であるとは限らない。例えば精神科医と言葉を交わすことも「 耕 す」 という行為の一種である。本 研 究 で み る 「 耕す」 という行為は、結果としてそれが水 位を下げることにつながる行為に限る。つま り 他 者 の 存 在 を 前 提 と し た 「 耕す」 という行 為について考察する。社会の側にいる他者が当事者のことを受け入れることでその水位は 下がるのだ。宮地は当事者自身の発信行為の重要性について以下のように述べている。. 当事者からの発信はさらに重要です。被災者や被害者は、つねに援助の受け手とみ られがちです。 「 かわいそうな」人として同情はされても、何かを産み出す人とはみな されません。 けれども、表現者として自ら発信するとき、人は力を取り戻します。 そ れ は < 環 状 島 >モ デ ル で い う 、< 内海> から這い上がり、波打ち際から声をあげる行 為です。. 先に、当事者は自らの中に出来事を語りたいという思いを内在していると述べたが、そ れは、 自 ら の 「トラウマを耕す」ための行為なのである。 この自らのトラウマを耕すため の、 自己回復のためにも芸術という手法は用いることができる。 こういった行為を復元力 (レ ジリ エ ン ス ) と述べることが出来るが、 この当事者が主体となる レ ジリ エ ン ス の 芸術. は受け手である他者にとり、伝達不可能なことが伝達不可能のまま送信される< 強 度 >の ある芸術である。本節では、 当事者自身が芸術行為の主体となる際におこるトラウマと向 き合う プ ロ セ ス に ついて、その プ ロ セ ス がいかに 困 難 かについて述べることで、後に詳し く述べる当事者が主体となる芸術の提起する < 強度> を知る手助けとしたい。 また当事者の語りの困難さは、共在者、介在者にも影響する。 『< 当事者> をめぐる社 会 学 調 査 で の 出 会 い を 通 し て 』 の第七章において、天田城介は当事者の語りの困難さに ついて下記のようにまとめている。. ここで私は、① き わ め て 過 酷 な 「 極限状況」 を生きざるを得ない人々にとっては、 自らその只中の現実を語ることが困難であること、その困難さがゆえに誰かがその困 難を含めて語るしかない現実があることを明らかにしようと思う。また、②そのよう に語ることが困難で声を失ったものこそが常に他者に声を与えることができること、 そしてその声を与える者は一義的には決定し得ないことを明らかにしていきたい42。. 4 2 『< 当事者> をめぐる社会学調査での出会いを通して』p.122.. 25.

(32) ①はつまり、 当事者が自らの体験を語ることが困難であるために、 当事者の代わりとし て誰かが声をあげる現実があるということを述べている。本 論 文 に お い て は そ の 「 誰か」 を共在者の立場にいる者とする。共在者の芸術については次章について述べていく。 また ②は当事者の語りの困難さが逆説的にその出来事の壮絶さを示し、第三者の立場にいる者 を引きつけていることを示すものだ。 当事者の語りが困難であるという事実は、第三者の 芸術行為の出発点ともなる。. 次に、『越 境 す る 知 語 り :つむぎだす』の 中 の 高 橋 哲 哉 に よ る 「トラウマと歴史-アブラ ハム•ボン パ の 沈 黙 に つ い て 」 と い う 章からトラウマを語る プ ロ セ ス に つ い て 述べる。 高橋は本書において、ラカプラの、ランズマンによる映画『ショア一』43論を参考に、 ト ラウマという記憶を語るとき、重要となるのは、 「 行動化」 ( ア ク テ ィ ブ •ア タト)および 「 徹底操作」 (ワーキングスルー) という二つの精神分析的概念であると述べている。. 「 行動化」とは、ラカプラの理解では、「 忘れることの出来ない対象にとらえられ、 反復強迫的にトラウマ的残余に襲われている状態(幻覚、フラッシュバック、悪夢)へ と人を従わせる直接的な転移( transference) のプロセスにおいて、過去を再生した り、生き直したりすることである」( ibid,p .104)。「 徹底操作」とは、「 可能な範囲で、 過去を記憶に変換し、過去に関しても現今の生活要請に関しても責任を果たしうるよ うに、行動を制御する手段を与える」 こと、あるいは、 「 社会的、政治的問題を引き 込んで、責任能力ある制御を働かせる手段を与える試み」で あ る ( ibid.p .110) 44。. トラウマが外在化するとき、そ れ は 上 記 の 「 行動化」、 「 徹底操作」の二つの段階にわか れる。 この二つの概念は陸続きになっており、当事者はこの段階を行き来する。宮地尚子 の 「 環状島」 の論理をここに当てはめるならば、 トラウマの反応や症状= 重力といえるだ ろう。 当事者は芸術という手法をとりその過去を生き直し、表現をするときには徹底操作 という段階に立っている。徹底操作の段階に達した当事者が行う表現が「 語り」で あ り 「 芸 術」であるならば、行動化の段階にあるとき当事者がとる方法は「 沈黙」である。 高橋はまた、 フロイトの論に重ねて、行動化と徹底操作を以下のように説明する。. 4 3 『ショア一』 ( 1 9 8 5 年仏) クロードランズマン監督ホロコーストにかかわった人々のインタビュー集 ドキュメンタリー 44栗 林 彰 •小 森 陽 一 •佐 藤 学 •吉 見 俊 哉 編 (2 0 0 0 年)『越 境 す る 知 語 り :つむぎだす』( 東京大学出版 会)P.163.. 26.

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